2022年の総括

節目となる1年でした

2022年もあと数時間という段階で、書き始めています。令和4年、2022年はどんな1年だったか。振り返って見ると、本当に色々とあった1年だったと思います。Gmailのカレンダーを見返し、iPhoneで撮りためた写真を見ていると、1つ1つのことのボリュームも多すぎて、とても数時間ではまとめきれない感じです。

 

薬局では、対物業務の効率化と対人業務の充実をさらに深掘りしながら、経営的にもよりよい方向が見えつつある、そんな1年でした。スタッフが一丸となってやって下さったことに感謝です。

また、病院では、1年半ほど前から取り組んで来た経営品質向上に向けた取組が「デザイン認証」という形でまとまりました。コロナで大変な中ですが、これまたスタッフが力を合わせて乗り切っていこうという雰囲気が固まってきたことは、有り難かったと思います。

さらに、個人としては、厚生労働省、文部科学省、内閣府の会議に、参加する機会を得た1年でした。内容についてはまだまだ議論があるでしょうが、薬剤師、薬学教育、薬局のあり方について、自分の考えを述べる機会をいただけたことはありがたいことだと思います。

 

しかし、やはり何と言っても、大きかったのは入院をして手術をすることになったことだと思います。

事の発端は、8月の終わりに、いつもの美容院に髪を切りに行った帰り、ビルの玄関(写真)で派手に転倒して右腕をついたことでした。雨で濡れていたこともあり、比較的滑りやすい床で我ながら綺麗につるっと滑りました。右肩がぐきっと鳴ったので脱臼したのかなと思いましたが、色々調べると腱板が断裂していました。

 

大学時代の先輩で、事務所の近くで開業している先生に相談したところ、「手術した方がいいよ」ということで、さらに先輩の先生をご紹介いただき受診。

 

あぁ、これは、手術ですね、とあっさり言われて、「2ヶ月待ちだけど、どうします?」ということで、いくつか講演の予定を調整していただき、11月の初旬に手術を受けました。

 

同じ大学の系列ということもあり、術前の麻酔の先生は、年賀状をやりとりしている先生だったり、整形外科外来の隣では同門の外科の先生が診察されていたり…。また、そもそ20年ぐらい前には、手術や検診の手伝いに行っていた病院なので、妙に安心して手術を受けてきました。手術自体はつつがなく終わり、経過も安定していたため、後は自宅で安静にしてね、ということで退院。現在に至ります。

 

この入院、手術、自宅療養の間には、自分でも色々と考えることがありました。右手が使えないということや、入浴や着替えなどを恐る恐るだったり、食事に苦労したりということも良い経験になりました。

 

運動も厳禁となったので、あんなに足繁く通っていたジムにも行けなくなりましたし、装具やスリーブを着けている時には、出張もせずに過ごしました。zoomでの講演やセミナーはいくつかありましたが、現地に赴くようなものは行わずに2ヶ月あまりを過ごしました。

 

先日、冒頭の「デザイン認証」の認証式で東京に参りましたが、本当に久しぶりの出張でした。新幹線の乗り方も、ちょっと怪しい感じすらしたものです。

11月のほぼ3週間、入院、手術、療養に専念することとなり、自分の働き方や生き方についても考え直すことになりました。若いつもりでやっていても50歳を回っていて、色々と気をつけているつもりでも、何でもないところで素面でこけて、手術までしなくてはならなくなる。

 

自分の今までも見てきても、不運としか思えないような状況の時は、生き方、働き方を考えた方が良いよというシグナルと思うようなことが本当に多いのです。中学受験を失敗し、大学受験を失敗し、アトピーが超絶悪化し、スピード違反で一発免停となり…いずれも、なんでこんなことに、と思った時は、人生における大きな転機でした。あの中学に行っていなければ、あの時浪人していなければ、あの時皮膚の状態がボロボロでなければ、あの時免停を1日にするために1日間運転試験場で過ごさなければ、あれも、これも、それも、どれも、なかったのです。

 

今回の怪我、入院、手術も、なんであんなところでというところで転けていますし、なんであの時、なんであんな風に…と思うことが多く、何か、メッセージがあるのかなと思いながら、ベッドの上で肩をさすりながら過ごしていました。

 

で、色々と考えてきたなかで、帰着したのが、今年は節目となる1年だったなということです。

 

振り返って見ると、1995年から2004年までは、大学の医局に籍を置いてひたすら外科医として臨床・教育・研究と言い聞かせながらやってきました。外科認定医(当時)、呼吸器外科専門医、学位と順調に進む中で、色々なことがあり、外科医の道を離れることになりました

 

2004年から2015年までは、医師としての活動は細々続けていましたが、薬局の社長として無手勝流もいいところで試行錯誤を繰り返してきました。バイタルサインが大学でも教えられるようになり、薬剤師の対人業務という流れが出てきて、自分の薬局経営についても、ある程度方向性や目処が立ちだし、ちょっと楽になるかなと思ったころに、吸い込まれるように病院のやり直しという案件に取り組むことになりました。もう少し砕いていえば、自分としてはM&Aは止めた方がよいですよと助言した病院に赴任することになったのです。「自分の会社ほっぽり出して、何をするのか!」という声が、直接ではなかったですが、間接的に耳にしながらの勤務内容の転換でした。

 

2015年からの7年は、本当に大変でした。特に、私は平社員と社長しかやったことがなかったので、いわゆる中間管理職的な働きを勉強することになりました。これはめちゃくちゃタメになりました。また、組織をまとめていく、個別に話込みをしていくといったことも、ほぼ一から勉強しなおすことになりました。さらに、医師としてもきちっと患者さんを診るという経験を改めて積ませて頂くことができました。そして何より、稀代の経営者の直ぐそばで、まさに薫陶をうけながら、ビジネスとは事業とは経営とはということを学ぶことができたことは、40代半ばで180床の病院組織の立て直しをするということとともに、とても貴重な経験をすることができました。

 

行き詰まっていた病院が息を吹き返し、薬局もそれなりに目鼻が付き、学会も私以外のメンバーが講師を務めてくれることが定着し、さぁ、と思っていた時の、今回の怪我でした。

結果的に、3週間病院をあけることになり、その後も右手は、2月ぐらいまでは装具をできるだけ着用し、来年のGWぐらいまでは無理をしてはいけないという状況になる中で、病院での働き方を変えざるを得なくなりました。

 

端的にいえば、プレイングマネージャーからマネージャーへの転換を余儀なくされたということです。

 

病院の立て直しをする際には、自分自身も医師として活動することの意義は極めて大きかったです。逆にこれなく7年間取り組んで来ても、おそらく病院のメンバーと心を通わせ、組織の温度を上げていくことは難しかったと思います。

 

ただ、時間も気力も限られるなかで、マネージャー的な活動が不十分で、そのために逆に迷惑をかけてきたこともあったのだな、と今になって思います。自分の働き方を変えることが、組織にも戸惑いはあるにせよ、意味がある。

 

そして、そこでの学びは、薬局にも学会にも返せるはず。そう考えていた矢先に、これまた導かれるように申し込んだ、経済産業省/JETROのイノベーター育成プログラムに参加することができ、2月には10日間シリコンバレープログラムに参加させていただけることになりました。

 

また同時に、薬剤師向けの書籍も改訂新版として出すことができました。

振り返って見ると、外科医から薬局の社長に、薬局の社長から病院の院長にという風に、時間の使い方をシフトしてきました。完全に移るというよりは、新たな役割を増やしてなんとかやりくりしてきた感じです。節目は色々あり、それは先ほど申し上げたように、普通の見え方としては、印象的な出来事がきっかけになっていました。しかも、いずれも、さぁ、これからという時に、予期せぬこと、アンラッキーに思えること、合理的には思えないことがおこったことが原因でした。

 

今回の怪我も、個人的には、なんであんなところで、なんであんな風に、なんで今?という要素が満載なのです。きっと節目の出来事になるでしょうし、10年も経てば、あの時にあの怪我があって、と笑って話せることとなるでしょう。いえ、地道にがんばりながら、そうしなければなりません。

 

今年も1年、お付き合いいただき、ありがとうございました。節目を超えた2023年、引きつづき、がんばりたいと思います。また来年もよろしくお願いします。